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(no subject)
私がやったのは、その再構成の方みたい。
たぶん塩基配列を組み換えるんだろうけど、もうちんぷんかんぷん。ま、魔術が科学的な説明するのもナンセンスだし?」
しれっと、まさに他人事のように青子は言った。 あの時の青子が扱った魔術は前借りしたようなもので、今の青子にはまったく使えないものらしい。
不幸中の幸いではあるが、同時に、十年後にくる逃れられない脅威でもある。
とばっちりを受ける候補その一としては、たいへん頭の痛い問題だった。
「あと数年後には蒼崎はそんな事もできるのか。 …………末恐ろしいな」
心底からの気持ちを呟く草十郎。 それに青子はきょとんと目を見開く。 何をいまさら、と言いたげな顔だった。
「えっとね。有珠ならそれぐらい、今でもできるわよ」
「なん、だと?」「……やっぱりね、そんな事だと思ってたわ。 前にも言ったでしょ、アンタはあの娘を甘く見てるって。 有珠の部屋のもろもろの人形は、あの娘に逆らった執事たちのなれの果てなんだから」「……まさか。有珠はそんなコトしないぞ」
「いやいや、これがこれが。私もねー、付き合い初めて半年はそう思ってたんだけどねー」 軽快に笑いとばす青子だが、その陽気さが逆に怖い。「……蒼崎。その冗談、笑えないぞ」「あら、私は笑わせる気なんて、これっぽっちもないんだけど?」 青子は明らかに草十郎をからかっている。 どこまで信じていいのか判別がつ
“……ま、あそこでアンタの言葉にうなずいちゃうあの娘が、そこまで魔女になれる筈もないんだけど” 温かな感想を胸に留めた少女は、彼の横顔を見ながら歩いていく。
道はいつしか、畦道から山道になっていた。 小振りな山は思いのほか拓けていて、木々はあるものの、山道は横に広い。 自然の並木道は延々と山頂に向かっている。 土の道には轍がある。 おそらく蒼崎の家から車が通っているのだろう。 はげ山には街灯も民家もなく、明かりは星と月の光だけだった。
山道の傾斜は、段々と平坦になっていく。 道はずっと先にある民家の前で途切れようとしていた。 まだ遠くで建物の輪郭も掴めないけれど、暖かそうな窓明かりから、あれが蒼崎の家だろうと草十郎は読み取った。「ところで、君が家で団らんしている間、自分は何をしていればいいんだろう」 一家団欒する青子の姿は想像
草十郎としては今から帰っても、ここで一晩野営しても文句はない。 けれど、青子の返答は予想外のものだった。「君は、うちの離れにいって祖父に会うの。 たぶん、そこで今日までの記憶を消されるわ」 ぴたりと足を止めて青子はそう言った。 今までの打ち解けた雰囲気もなく、他人と話すように。「え………………?
「……いや、驚いたけど。でも、それは初めから決まっていた事だ。そうか、それで蒼崎は俺を連れて来たのか」「退屈しのぎは本当よ。それとは別に、祖父が貴方を連れて来いって言ったの」
なるほど、と少年はうなずく。 夜は密やかに変わりなく、少年も、なにひとつ変わりはなかった。 ……目前の少女が、その在り方を憎らしいと思うほどに。「それじゃ行こうか。立っていると寒い」「草十郎」 歩きだそうとする草十郎を、青子は声で引き止める。「貴方はそれでいいの? 記憶を消されるって事は、今まで
青子の問いに、草十郎はそうか、と呟いた。 青子の事はもちろん、有珠の事や、あの洋館での暮らしを忘れて一ヶ月前の自分に戻るのは、手に入れかけた宝物を無くしてしまうような気がする。 けれど、それを惜しいと、彼は思わなかった。「たしかにそれは嫌だな。蒼崎と知り合ってからの一ヶ月は楽しかったし、有珠とも
その後には、お互いの接点はないように思われた。 こんな関係になる事もなく、ただ気に食わない生徒にしか見えない。 どんなに優れた偶然が働いても、もう、今の状況には戻れない。 ……それを少し残念だと思うのは、たしかに、未練だと認めるしかない。「そう。なら行きましょ」
整理のつかないまま、理屈だけで感情を切り捨てて、青子は歩きだした。 そのとなりに草十郎は付き添っていく。 目的地まであと数分。 草十郎はいつも通りの顔で歩いていて、青子にはそれが腹立たしい。 こっちはホンの少しだけど未練と思っているのに、この男は微塵もそう思っていないのだ。「……そりゃあね、平気
一度きりの狼退治。 静希草十郎とは何者なのか、という不明点を。 あの夜の青子は草十郎の時間を知ってはいたが、今の青子は知る由もない。 この凡庸な少年の間違い。なぜあんな事が出来たのか、そもそも、彼は山でどんな生活をしていたのか。 今まで気になってはいたものの、ついに聞き出す機会には恵まれなかった
「当然よ。アンタが忘れても、私が覚えているんじゃ意味がないでしょう。お互いが忘れなくちゃ人と人の関係は断てないわ。 ……行って来いで公平じゃない。なんで、そんな顔するの」 言われて、草十郎は口元を手で隠した。 自分がどんな顔をしていたか判らないが、情けない顔をしている気がして。
「そうか、蒼崎も忘れるのか。 …………そこまでは、考えていなかった」「ええ。そして、私は貴方とは会わなくなる。断定はできないけど、まず間違いなくね」 だから、これは最後の会話。 青子の台詞からも、お互いが忘れるという事からも、それは感じ取れた。 蒼崎青子は変わらず学校にいて、その後ろ姿に草十郎は憧
そこでようやく、彼は忘却の無慈悲さを知った。 青子の事を忘れる、とは彼女との出来事を忘れるのではなく、蒼崎青子という名前、存在からして忘れる、という事だ。 彼女に憧れる自分はいても、その正体を掴む事はない。 どんなに優れた偶然が働いても、今の状況には戻れない。 この夜の歩みは、互いの死を見取る葬
「だから、その前に聞いておきたいの。嫌だっていうなら、あとはこのまま家まで直行するだけだけど」「それはさみしいな。……うん、くだらない話だけど、会話がないよりはましだろう」
呟いて、草十郎は歩きだした。 今度は青子が付き添うよう、となりに並ぶ。 道はあと数分足らずで終わろうとしている。 寒さのせいでふたりの吐息は白く、暗い夜道によく残った。 後になって青子は振り返る。 あれは会話ではなく告解に近いもので 彼にしては長く続けられた、不出来な昔話のようだったと。「山での
歩きながら草十郎は語っていく。 青子には視線を向けず、前を見つめながら、夜に語りかけるように。 青子は沈黙に徹している。 うなずきも問いかけも、今は無意味な行いだ。「目が覚めていつもの一日に戻って、ふと気が付くと昨日までいた誰かがいない。 訊ねてみると、夜に体調を崩したらしい。たまにね、眠れなく
「山では食べる物も少なかった。飢えないためには、他の人がよりつけない場所に行くことが多くなる。その途中の道で、いなくなってしまう人も多かった」「……今にして思うと、あれも不思議だったな。 山では、誰も他人から奪うことを考えなかった。口にできるものを探す時、気をくばる相手は犬だの熊だのだけで、人を気
「あの決まり事がはじまると朝も夜もなかった。 外の変化に気持ちを向ける余裕はなくて、ふと気が付くとずいぶん長く食事をしていない、なんてのもざらだった。 あ、ちゃんとご飯はもらえたよ、そういうのの後は」「あれが何のためだったのかは、今でも分からない。 ただ山で暮らしていくには役に立ったし、そもそもあ
「でも、考える事さえなかった。 精神の隙間を知れだの、命の勝ち負けを知れだの、意味をくみ取らないまま鵜呑みにして、当然のように繰り返した。 それがどう評価されるものなのか、俺には分からない。 ただ、知らなければ。 外の事なんて知らなければ、悩むことなく、自分はそこに居続けられたと思う」「……貴方の
たとえば、この少年の教養のバランスだ。 文明の機器をまったく知らないくせに、基礎知識だけは持ち合わせていた。 今の話では人付き合いは皆無だというのに、意思の疎通、言葉による対話に慣れていた。 それは偶発的には生まれるはずのない環境、第三者の意図によって作られた異常性だ。 ……その、第三者の意図な
道の終わりには、彼女の帰る場所があった。 これといって特色のない一般家屋。 街にある一戸建てをそのまま持ってきて、日々の趣味として畑や家畜を育てている、あまりにも平和な家。 それを視界に収めて、先ほどの少女の問いに答えようと、彼は口を開けた。「自分には、できなかった。知らなければ良かったのに、知
「どんなに山にいたくても、できないのなら意味がない。 俺は意味を知った瞬間に、意味を信じるコトができなくなった。だから山を下りたんだ。 ……けれど、どうなんだろう。 そこでは、そうする事だけが全てだった。 そうする事だけしか教えられなかった。だから」 間違えていたのは。 おかしかったのは、疑いを持
“知らなければ、良かったのに。” その言葉の罪深さは、呟く本人が誰よりも。 だから彼は問うたのだ。 おかしいのは一体なんなのか。 間違っていたのは誰なのかを。 自分の言葉ではなく、少女の言葉で、明確に告発してほしかった。 一瞬の、けれど永劫のような思考の末、「私には、答えられないわ」
少女は静かに、そう返答した。
分からない、ではなく、答えられない。 それは嘘を言わない彼女にとって、精一杯の回答だった。 少年は深くかみしめる。 今のがどれほど優しい言葉なのか、考えるまでもないのだから。「うん、そうだな。君の最初の優しさが、今でよかった」 などと、倖せそうに言う草十郎を、青子はじとりと睨みつけた。「なによそ
「話、途中なのにね」 辿り着いてしまった家を見上げて、白い息をこぼす。 うなずく草十郎の顔に、もう昏い翳りは微塵もない。「自分も、話してみてようやく振り向けたと思う。だから蒼崎には感謝してるよ。 それに、これはもう終わった事だ。 続きを話すのは、また機会があった時にしよう」 消え入るような笑顔で、
「あそこ、ちょっとした洞穴があるの。そこに祖父がいるから、行って。 ……ほんとはもっと違った話が聞きたかったけど。仕方ないか、魔法は十二時になるときれちゃうものだしね」 皮肉げな微笑みを浮かべて、青子はそう言った。 それがどんな童話の引用かも知らず、草十郎は歩きだす。 家から離れた森は遠すぎて、青
その洞穴に入った瞬間、奇妙な懐かしさに襲われた。 郷愁ではなく、もっと前期の。 今の自分すら遠く想うほどの、彼方に至る懐かしさだ。
その人物が何者であったかは、よく覚えていない。 自分と同じだったかも知れないし、老人だった気もする。 人らしき輪郭だけがあり、その中身を判別する事はできなかった。 叶ったとしても、表現するための適切なパーツが思いつかない。 はっきりしていたのは、その煙のような人物が、青子の言う『祖父』という事だ
洞穴に充満した、蒸気のような精気に目眩がした。 この老人は、青子と橙子が生まれた瞬間に、彼女たちが孫である事を忘れたのだ。 ……正統な蒼崎の後継者は、たぶん、永遠に誕生しないだろう。 この老人がいるかぎり、際限なく新しい力は求められる。 そこには妥協も限界もない。「青子は、そのために過去を捨てた
「それは間
違いだ、少年」 ……あの時、あるいは。「捨てたのではない。過去を美しくする為に、アレは生きているのだ」 己の役割は、とうに終わっていたのかも知れないが。 老人の姿は青年に変わって見えた。 ほんの一瞬だけの、陽炎のような揺らぎだった。
「君の過ちを正そう。娘たちは、私という物をよく解っている。ともすれば、私本人より理解しているとも言える。 私が娘たちの人格を考慮せぬように、娘たちもまた、私という物の人格を認めていない。 祖父さえいなかったのなら、という考えさえないだろう」「あれらはそもそも、争いあう自分たちを一度も卑下はしない筈
似合わん。まったく、似合わん。
だが、そちらでは正しい事だ。不釣り合いな場所にいるのなら、不釣り合いな名が必要だろう。
稀少ではあるが、やはり無価値だ。
全てを肯定する諦めは死に由来するものだろう。続くものがない以上、一代かぎりの才能は無価値だ」
「青子の行く末に影響を与えた君に興味を持ったが、失望した。
無駄な時間を過ごしたようだ。
今は結ばれているが、いずれ離れていくのは変えようのない結末だ。
では立ち去りたまえ。
私は死者に用はない。二度と会う事はないだろう」
風景が霞んでいく。
記憶が薄れていく。
答えのなかった会話。
意義のなかった時間のあと、全ては夢のように霧散した。
夜気は寒くて、空は綺麗だった。
一日の終わりに映る光景は、けれど、一日だって同じ事はない。
今日の景色は今日だけの物だ。
人の知覚では大差のない風景にしか映らなくても、
その時の風景の美しさも、ありのままに感じる傷心も、すべてが儚くて、明日は違った自分で目が覚める。 山の閑散とした空気の中では、そんなあたり前の事が冬の寒さよりずっと、体に沁みこんでくるようだった。
彼は時を忘れたように空を見上げている。
それを止めたのは、呆然と立ち尽くす青子の視線だった。
「なんだ。早かったな、蒼崎」
庭から出てきたばかりの青子に向けて、草十郎は話しかけた。
青子は言葉もなく立ち尽くしていたけれど、すぐに気を取り直してつかつかと歩きだした。
そのまま草十郎の前まで行くと、じろりとした目で睨む。
こんなヤツ認めない、と言わんばかりの視線の激しさに、草十郎は肩をすくめた。
青子がどうしてこんなに怒っているか、草十郎にはまったく見当がつかない。
「……なんで、まだここにいるのよ」
“……自分は、なんとか割り切ったのに”
それなのに、この男が目の前にいるコトが青子には憎らしかったらしい。喜ぶべき事なのか悲しむべき事なのかを考えるのは、たぶん、その怒りが治まってからだろう。
人間、思い通りにいかないと無性に腹が立つものなのだ。
「さっきから十分と二十秒も経ってない。
なんでこんなところで突っ立ってるのよ、アンタ」
いかに祖父といえど、記憶を消去して空白の一ヶ月をつなげるのには一日を要する筈だ。
だからあとの処置はぜんぶ祖父に任せようと思ったのに、草十郎はここでぼんやりと空を見上げていた。
“……祈祷師じゃあるまいし、ほんと、夜空を見上げるのが好きな奴” そんな青子の、口にはしない一方的な感情をぶつけられながら、草十郎は事情を説明する。
「……あの老人からの伝言だけど。
記憶の消去は君の役目で、人に頼るな、だそうだ。今日呼ばれたのは、たんに悪口を聞かせたかっただけらしいよ」
その言葉で青子の憑き物は落ちた。 今にも平手打ちが飛んできそうな態度が、すう、と落ち着いたものになる。
「……そっか。 人に任せるなんて、たしかに私らしくなかった」
きびしかった瞳が、段々といつもの、不機嫌そうな顔になっていく。
ホッと安堵する草十郎。
ご機嫌は、なんとか戻ってくれたようだ。
「納得いったなら、行こう。
急がないと最終電車に間に合わない」
返事を待たず草十郎は歩きだした。 青子はその背中を少しの間だけ見つめてから、小言を言いつつ付いていく。
帰り道は、来る時より楽だった。
眼下の景色は一面の闇。 その黒い海の中、灯台のように、小さな駅が輝いている。
ふたりはしばらく、言葉もなく歩いていた。
青子は来る時の会話を思い出して、若かったなぁ、と反省中。 こんな事なら、あんなしんみりとした話をするんじゃなかった、と照れている。 一方の草十郎は、いつも通り、何も考えてはいなかった。 草十郎にとっては普通の、青子にとっては気まずい沈黙。 そんな中、不意に草十郎はおかしな事を言いだした。
「有珠には、お餅を買っていってあげよう」
目を点にする青子。
この男はいったいなんなんだろう、という不満とか疑問がありありと浮かんでいる。
「お餅が、なに……?」
「お土産。有珠、ひとりで待っているんだから、喜ぶと思う」
うーん、と青子は難しそうに口に手をあてた。
手袋をしていない細い指が、寒さで白く染まっている。
“……あの娘にはそういうの逆効果だけど、草十郎がやるぶんには大丈夫か……”
見るからに無欲という彼の雰囲気は、こういう時便利だ。
有珠も素直に厚意を受け取る公算大である。「そうね。たしかに有珠はこういうの根にもって、口に出さずに恨んでる性質だけど。
また、なんだってお土産がお餅なの?」「だって、食べた事なさそうだろ、彼女」
あっさりと返答されて、青子はたしかに、と同意してしまった。
有珠がお餅を食べている姿をつい想像し、とたんに帰るのが楽しみになってくる。
「アンタって本当に無心よね。
……そういえば前から不思議に思ってたんだけど、いつから有珠と仲良くなったの? そのきっかけが、私には分からないんだけど」
隣りから覗きこむように見つめられて、草十郎はさて、と考えを巡らせた。
「大きなきっかけとか、そういうのはないと思うけど。
しいていうなら初めて話した時かな。もっと確かになったのはロビーで話した時だろうね」
「たったそれだけ?」
「ああ。親しくなるっていうのは、そういう事だろ?」
変なこと訊くんだな、と草十郎は言葉をきった。
言葉ではなく感性で通じ合う。
たしかに、この少年と有珠はそんな関係なのかも知れない。
「……そういえば、初めから『有珠』って呼び捨てだったものね、アンタは」
「そうだっけ? よく覚えていないけど。……それより、なにを怒ってるんだ蒼崎?」
「別に怒ってないわよ、私」
その返答は、やや冷たくて、どことなく愛らしかった。
山道は半分にさしかかる。
平地に近づくにつれ星空は遠のいていくようで、草十郎はぼんやりと空を見上げ続ける。
来る時からその素振りが気になっていた青子だが、ここにきてようやく、その理由に思い至った。
ようするに、彼は懐かしがっているのだ。
山から見る星空というヤツを。
「蒼崎」
不意に、草十郎は見上げたまま問いかけてきた。
「ひとつ聞きたいんだけど、君に後悔はあるのかな」
両手を上着のポケットにいれたまま、白い息をする草十郎。
青子にはその姿が、幻のように遠く感じられた。
「……どうしたの、突然そんなこと聞いて」
「いいから、答えて。聞きたいんだ。
君に、悔いはあるのかないのかを」
……それは、哀しい問いだった。
なんと答えても彼は多くの物を失うのだろう。
それでも答えを求めている以上、青子はさっぱりと返答する。
「ないわよ、そんなの。だってそれをしない為に、今を頑張ってるんだもの。
後悔なんてのはね、草十郎。するものじゃなくて、無くしていく為にあるものなのよ」
「」
……ああ、と。
噛みしめるように、彼は万感の想いを葬った。
もう形も匂いも薄れている全てに、手を伸ばさず、手を振った。
「そうか。後悔も、無くなるものなのか」
呟く顔にはかすかな痛み。
ただ、鮮やかで。
そう言い切れるほど自分は強くはないけれど、それに焦がれている。そう言い切れる彼女に、強く焦がれている。
なら、いつか
いまは、空も闇も遠く。
今日だけの景色が、いつまでも美しく思えるのなら。
残してきた幾つかの悔いが、星のように思える日が、いつかはあるのだろうか?
「いい空ね。町じゃ、ちょっと見れないな」
見上げる草十郎にならって、青子は暗い空を眺めた。
星は町でのそれより強く輝いている。
澄んだ空気と、明かりのない闇のおかげだ。
それを憎むような眼差しで草十郎は見つめていた。
……こんなにも綺麗な星なのに、それを偽物と決め付けるように。
「……そうだね。でも、ここでも手は届きそうにない」
「え……?」
突然の否定に驚いて、青子は草十郎の顔を覗き見る。
……憎むような瞳は、もうくすんだ色に戻っていた。
一呼吸して草十郎は呟く。 視線はいまだ星空に釘付けたまま。
「山ではね、蒼崎。星は本当に手が届きそうなんだ。届かないのは分かっていても、望めば本当に掴めそうなぐらい近いのに。
都会の星は、そう思う事さえ許してくれない」
それが本当のソラ。
彼の語る山の星空は、天象儀より素晴らしい物だった。
降り注ぐ雨のような、回る星々。
指でなぞるだけで観測できる、原初のままの夜空。
……それは、彼にはもう戻る事のできない、帰り道すら知らない故郷。
「……今まで、目に映るすべてを山と比べていた。こんな場所は、本当は嫌いだったんだ。今でも、正直なじめない。
でも、いつか比べるのは山になってしまうんだろう。自分は、こっちに下りてきてしまったんだから」
それが今までの後悔。
星空から視線を離して、草十郎は青子へと視線を向ける。
いつもとは違う、ためらいがちの彼女の瞳が、少し痛い。
それは自分への同情か、それともただの憐愍か。
……そのどちらにしたって、彼女らしくない瞳をさせているのは自分だ。
青子の無言の問いかけに、草十郎は目を閉じてうなずいた。
「……うん。それは仕方のない事だ。
ただ、そうなるのなら、そうなってしまう以上に、すばらしい物を手に入れないといけない。
後悔を、いつか、後悔と思わないために」
彼は感謝するように、そう告白した。
古いカラは捨てなければいけない。
喪失は踏み越えなければならない。
それが、青子の答えで彼が失った、彼の全てだったモノ。
「……やめてよね。私の一言でいちいち人生観変えられちゃ、荷が重いじゃない」
向けられた笑顔があんまりに柔らかくて、青子は顔を背けながら憎まれ口を言う。
……本音である可能性も大きいが、それはそれで彼女らしい。
「それで、祖父と何を話したの?
あの人が他人に興味を持つなんて、すごい事よ」
せっかくの質問だったが、あの老人との会話について、草十郎は答えなかった。
当たり障りのない返答をしてお茶をにごす。
道は、もうじき平坦な路面に戻ろうとしていた。
柔らかな土の地面は、畦道の固い土の道になるのだろう。
その前に、ぴたりと草十郎は立ち止まった。
目を閉じて、耳を澄ます。
その後にうん、とうなずいて青子に向き直った。
「おめでとう、蒼崎」
青子はわけも分からず目をまたたかせる。
「なによ、突然」
当然の反応。
それに、少年はほころぶように、
「新しい年だ」
喜びに満ちた笑顔で、そう返答した。
「」
青子は呆然と、ただ彼の顔を見てしまう。
あまりの不意打ちで、遠く離れた社木から除夜の鐘が聞こえた気がするぐらいだ。
今日が今年最後の日だと知っていたのに、彼女はそれをどうとも思っていなかった。
なのに、たった少しの言葉だけで。
遠い昔に置いたままの、鐘の音の奇跡を信じていた少女が振り向いた気がしたのだ。
「そっか……午前零時で、もう新しい年なんだ」
知らなかった事のように青子は呟く。
その口元に、少しだけの微笑みを浮かべて。
……そう。
思い出の中で振り向く少女は、初めての振り袖なのに緊張の素振りもなくて、あんまり可愛くはなかったけれど。
それでも、鏡越しに微笑んでしまうだけの愛らしさはあったのだ。
温かそうな青子の顔を見て、草十郎は満足そうに目蓋を閉じた。それが何より嬉しい、と言うように。
「うん、色々あったけど。
新しい年を、君と迎えられて良かった」
そう言って草十郎は歩きだした。
たぶん、こんな夜なのにひとりで待っている有珠の為に。
その横を歩きながら、青子はさっきの言葉をもう一度だけ思いだす。
新年を告げる言葉。 本当に自然に告げられたあの一言のせいで、もう何年も前から知り合っている友人の気さえした。
それをとても幸福な事だと感じるのは、たぶん間違いじゃないはずだ。
いずれ、この少年ともあっさりと別れる日が来るのだろうけど。 その時まで、こんな風に自然に、古い友人のように付き合えるのなら、それは悪いことじゃない。
一見素朴な、けれど特異な少年。
彼との束の間の友情がいったい何時まで続くか考えながら、青子は足を進ませる。
途中で一度だけ、草十郎のように、名残惜しく夜空を見上げてから。
空には満天の星の夜。
ふたりは届かない星空の下、山道を下りていく。
私がその本を見つけたのは、
日曜のけだるい午前中の事だった。
部外者……というか約一名の冒険野郎……立ち入り禁止の、久遠寺邸の図書室。
本棚の上に隠すように置かれたそれは、なんとなく秘密めいて私の興味をひいたのだ。
盾にでもなりそうなほど大きな本を、苦労しながら本棚の上から引っ張り出す。
パラパラとめくっていくうちに、これがルーン魔術の魔導書、それも原書に関するものである事に気が付いた。
まさかね、と思っているうちに、ここのところ探す素振りさえ止めてしまった、目的の物が発見された。
北欧の大神が戦乙女に使ったとされる、存在だけは有名な忘却のルーン文字だ。
その使用法が如実に書かれたページとにらめっこすること数分。
……結局、私は本を閉じる事にした。
そうして元の位置より、もうちょっと見付けにくい場所に戻そうとした時、あれっと思い出す。
……この本を、どこかで見た事があるのだ。
あれはいつだったろう。
たしか……そう、彼が初めて遊びに行こうと誘った時。
自分の目前に座っていた少女が手にしていたのが、この本だったと思うけど……。
いや、きっとそうだ。
小さな笑いをこらえきれず、私は本を寸分違わない元の場所に戻すことにした。
ここの蔵書量なら本棚の中に混ぜたほうが見付ける可能性は低いのだけど、ここは彼女の微笑ましい努力をくんで見なかった事にしよう。
……文字通り、自分の事を棚に上げてる、とは思うけど。
その時、本館の方から聞きなれた叫び声が聞こえてきた。
最近、彼は家政婦業に目覚めたのか、洋館のいたるところを掃除しようと頑張っている。
……それはいいんだけど、この洋館には私や有珠にだって手を出せない開かずの間が幾つもある。
それを構わず開けてしまうものだから、火の粉はこっちにまで飛んでくる。
この前は、有珠のお母さんが保存していた亡霊船を開放して大騒ぎになったんだっけ。
カティサークとかいう飛ばし屋を捕まえるのは、本当に苦労した。
あのいけすかない金狼の手を借りるのはもうゴメンである。
その前は地下室の悪霊さんご一行の封印を解いて、
さらにいけすかない教会ご一行が洋館に乗りこんでくるだけでなく、一週間も滞在しやがったし。
もう少しさかのぼれば、有珠の部屋に勝手に入って、そのとばっちりで私も鏡の国に落っこちて、あやうく有珠と全面戦争をする羽目になりかけた。
……考えてみると。
あいつ、学習能力がないみたい。
「もう、いい加減にしてよね、あのバカ……!」
さっきまでの幸福な気分が台無しになって、私は図書室から飛び出した。
たぶん、この後は廊下で立ち尽くしている元凶に飛び蹴りでも食らわせる、なんて未来視をうかべながら。
でもまあ、それはそれで楽しい日常には変わりはない。
棚の上に隠された私たちふたりの秘密。
あの本はたぶん、もう開かれる事はないだろう